北野武

  • ■生年月日: 1947/1/18
  • ■出身地: 東京都足立区

1947年1月18日、東京都足立区梅島にペンキ屋の父・菊次郎、母さきの4男坊として生まれる。
長男・重一、長女・安子、三男・大と祖母うしの7人家族。山羊座、O型。

1953年6歳。足立区立梅島第一小学校入学。

1954年7歳。鳥取の短大を出たばかりの藤崎先生が赴任し、6年生まで担任だった。カメラが好きで、よく生徒の写真を撮ってくれた。
体は小さかったが、すばしっこくてスポーツは得意。あだなは「ターチ」。ひょうきんな性格でクラスの人気者だった。
このころから野球に夢中で、授業が終わると荒川の原っぱに5〜6人の仲間で集まっては練習する日々だった。家の近くの小道具屋で980円のグローブを見つけ、両親に泣き付いて800円もらい、台風の日に兄・大さんと2人で買いに行った思い出も。

1955年8歳。学年から選抜され、NHKラジオ音楽教室3年生の部に出場し「かっこう」を歌う。
初めて野球のユニフォームを着る。背番号は「9」。

1956年9歳。1月、NHKのテレビ番組に出演し、大太鼓をたたく。
校内水泳大会にリレーのメンバーとして出場し、優勝。
家にテレビが入り、毎日のように近所の人が集まって「北野テレビ館」としてにぎわっていた。

1957年10歳。クラス対抗のソフトボール大会で6年生相手に完投勝利。
高学年になると日曜日はよく父親のペンキ屋の仕事を手伝わされた。

1958年11歳。成績はクラスで5番以内。算数と図画工作が得意で、特に算数は小学校時代はほとんど5だった。
誕生日に母さきに誘われ、遠足以外で初めて電車に乗る。神田の本屋で子供用の参考書「自由自在」を10冊買い、その夜から家で勉強が始まった。英語と書道の塾にも通い始める。

1959年12歳。4月、足立区立足立第四中学に越境入学。学力レベルは高く、1学年13クラスもあったが、成績が常時100番以内だった。
野球部に入部。新入部員50数名で、その中に元ロッテの成田(投手)が入っていた。総部員は80名でグラウンドにいても球に触ることはあまりなかった。
地元で「島根イーグルス」という野球チームが結成され、ピッチャーとして参加。

1960年13歳。野球部退部。島根イーグルスもやめる。

1961年14歳。ボクシングをはじめ、高校1年生ころまでヨネクラジムに名前を隠して通っていた。

1962年15歳。東京都足立高校に入学。硬式の野球部はなかったため、軟式野球部に入る。
祖母のうしが93歳で他界。

1965年18歳。明治大学工学部機械工学科に入学。

1966年19歳。大学2年の春、家を出る。母親が近所で内職をしている隙をねらって友人の家具屋の車で自分の荷物を運び出し、6畳1間で4500円のアパートへ。
大学にはこの頃からほとんど行かなくなり、新宿界隈で過ごしていた。新宿中央口前の「風月堂」に入りびたり、新宿の喫茶店「びざーる」などでバイト生活を送る。

1968年21歳。この頃、新宿のジャズ喫茶「ビレッジゲート」でボーイとして働く。当時の給料は1日200円だった。
他にもバイト先を転々と変わり、羽田空港のエア・グランド・サービスでは中上健次らと知り合う。浅草のデパートでは食品売り場で「中信」という菓子メーカーの量り売りの店員、青山のピーコックでは、たい焼きといもけんぴの実演販売も経験。銀座のクラブでは蝶ネクタイ姿で2ヵ月ほどボーイもやったが、ホステスの頭にビールをかけてひどく怒られた。
昼間はバイト、夜はフーテン仲間の友達の下宿で居候。目白の千歳橋にあるアパートで友人と暮らしていた時期もあるが、そこは家賃を9ヵ月滞納して追い出された。

1970年23歳。日本交通・早稲田営業所に入社し、タクシーの運転手として働く。

1971年24歳。同社を退社。

1972年25歳。ストリップ劇場の浅草フランス座でエレベーターボーイに。座長の深見千三郎師匠(コメディアン)に弟子入りを志願。楽屋住まいをしながらタップや芸の指導を受ける。初舞台はチカンのコントでオカマの役だった。

1973年26歳。この頃には進行係を務めながら舞台の終わる夜の9時半から11時頃まで1人コントの練習に励む。週に1回、渋谷のタップダンスの教室にも通っていた。楽屋生活から師匠の世話で浅草の第二松倉荘へ。当時の給料は1万5千円、部屋代は6000円で、1日の生活は300円という暮らしだった。

1974年27歳。歌手志望で山形から出てきた芸人仲間の兼子二郎に誘われ、漫才コンビを組むことになり、フランス座を出た。
漫才協団の松鶴家千代若師匠のところへ行って「松鶴家二郎・次郎」という芸名で漫才師としてデビュー。だが仕事がなく1ヵ月7500円ほどという貧しい生活が続き、再びフランス座に戻る。
さらにコロムビア・トップ・ライトのライト門下に弟子入りし、「空たかし・きよし」という芸名で漫才をしたが、それもパッとせずに半年も続かないうちにやめた。 コンビを解消したあと、フランス座の仲間だったハーキーと組んで地方を回る。
その後、再び二郎と組んで「ツービート」に改名。松竹演芸場の客席はお客ではなく、浅草の芸人仲間でいっぱいになった。

1975年28歳。TV初出演「ライバル大爆笑!」(テレビ東京)

1978年31歳。ツービートを結成して間もなく、テレビの寄席番組で知り合った漫才師の幹子さんと同棲。この年に結婚する。
※空前の漫才ブーム到来。

1979年32歳。9月12日、父・菊次郎、逝去。
フジテレビの「花王名人劇場」に初出演。

1980年33歳。元旦の生番組にツービート初登場。フジテレビの「初詣爆笑ヒットパレード」とNHKの「東西寄席中継」。
12月25日、ニッポン放送「オールナイトニッポン」に初出演。

1981年34歳。元日より「オールナイトニッポン」(木曜1部担当)のパーソナリティを開始。「村田英雄コーナー」では村田先生イビリのギャグが大人気に。
3月31日午後2時37分、長男の篤が3100グラムで誕生。
5月から「オレたちひょうきん族」がスタート。8月26日には前代未聞の夫婦漫才も実現。

1982年35歳。この年には「道楽バンド」も結成。バックをロックのダディ竹千代がつとめた。
母、さきとバイオミンXというドリンク剤のCMで共演。
7月、コーセー化粧品の秋のキャンペーン・キャラクターに起用される。
「オレたちひょうきん族」で「タケちゃんマン」登場。小学校給食のメニューにも「タケちゃんマンライス」が登場し、子供たちの大人気に。
8月、「戦場のメリークリスマス」出演のため、坊主頭になる。
10月5日、第2子の長女が2700グラムで誕生。知り合いの美しいホステスさんの名前にあやかり、姓に合う画数も考えて「井子(しょうこ)」と命名。

1983年36歳。2月2日、浅草フランス座時代の師匠、深見千三郎、逝去。
「たけし軍団」旗揚げ。野球チームも結成し、忙しいスケジュールの合間をぬって試合をしていた。
ドラマ「昭和46年 大久保清の犯罪」(TBS)で凶悪犯を演じる。

1985年38歳。映画「哀しい気分でジョーク」でシリアス映画に初出演。
4月より自らの小学生時代を書いた「たけしくん、ハイ!」がNHKドラマ化される。
8月には処女小説集「あのひと」を発表。
テレビのレギュラー番組が週7本に。

1986年39歳。4月、たけし軍団の前マネージャーが大麻不法所持で逮捕される。
12月、愛人問題を取材した写真雑誌「フライデー」に対し、「たけし軍団」の11人を引き連れて編集部を襲撃。9日に傷害などで逮捕された。

1987年40歳。4月、「フライデー」襲撃事件の初公判。7月には「オールナイトニッポン」に出演し、テレビには「風雲!たけし城」で復帰する。同7月、カレー屋「北野印度会社」を設立し、軽井沢、山中湖などにオープン。
太田プロから独立し、「オフィス北野」を設立。

1988年41歳。4月にブティック「KITANO CLUB」を原宿・竹下通りにオープン。6月には群馬県前橋市にアイスクリームとホットケーキの店「たけしブンブンランド」をオープン。

1989年42歳。「その男、凶暴につき」で初の映画作品を監督。

1990年43歳。「その男、凶暴につき」で日本アカデミー賞の話題賞に。授賞式には振袖姿で登場。

1991年44歳。監督第3作「あの夏、いちばん静かな海」で報知映画賞最優秀監督賞を受賞。

1992年45歳。11月、初の連載小説「漫才病棟」(週刊文春)スタート。

1994年47歳。8月2日の未明、バイク事故を起こし、新宿・東京医大病院に運ばれた。2ヶ月ほどの入院生活の後、9月に退院。

1995年48歳。3月「平成教育委員会」にて完全復活。5月30日、7年ぶりに高座出演。新宿・紀伊国屋ホールで行われた「寄席・山藤亭」に突然、飛び入りで出演し、右目に眼帯、真っ赤な高座姿、あぐらで古典落語を一席。

1997年50歳。映画「HANA-BI」がベネチア国際映画祭でグランプリを獲得。世界29ヵ国で上映される。

※ここまで、別冊新潮45「北野武編集長 コマネチ!ビートたけし全記録」2月号から抜粋(平成10年2月1日発行)

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